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執筆者の写真Keîta Chida

第四章、モーツァルト:ピアノソナタKV333

更新日:2019年2月18日


 ようやく第二主題である。

私の手にかかると、300小節の楽曲でこの調子である。

扱う題材が「第九」でないのがせめてもの救いである。


 第二主題はソナタの概念の中での大きな発展的発明の1つである。私がソナタの発生を詳しく書こうとすれば、恐らく「カラマーゾフ」超えの超大作になるであろうことは想像に難くない。故に詳細は触れないが、大きな意義の1つに単一主題からの脱却、第二主題の確立がある。時に西暦17世紀末、元号で言うところの「元禄」である。


「元禄」と言えば年末年始お馴染みの「忠臣蔵」である。いかに渡辺謙が名優といえども一人で忠臣蔵はなかなか難しい。吉良上野介も浅野内匠頭も大石内蔵助も全て一人で演じるにはハリウッド俳優と言えども無理であろう。

そこで登場人物を二人にした。真田広之である。つまりは第二主題の誕生である。物語の幅が広がる。こういう経緯ゆえ、第二主題は第一主題とは対照的な性格を帯びる。


 なるほどこの第二主題、一聴すれば第一主題と対をなす。新しいキャラクターである。しかしながら驚くべきはこの第二主題すらはじめの10小節の3つのモティーフで構成されているということだ。

 6度の順序下降、そしてそれを上下ひっくり返した六度、続く倚音付きの跳躍4度、そのまま倚音のシンコペーション。

 驚くほど第一主題の動機だけで出来上がっている。そうして全く別の代物。超一級品の新たな主題の誕生である。

 同時代の同業者でなくてよかったと心底胸を下ろしたくなる。


 が、モーツァルトの凡人イジメはこれで終わらない。怒涛の如く襲ってくる。

 和声の移り変わりの変化である。

前楽節がほぼ毎音ごとに和声が変わるのに対して、後楽節はどうであろう。和声の変化が1小節単位になっている。これもまた絶妙なアシンメトリーである。もし仮に後楽節も同様に和声が変化していたら、恐らく全体としてややケバケバしく、ゴテゴテした印象になっていたはずである。そこを敢えて後ろ半分を「抜く」。

 妙技ここに極まれり。絶妙のバランスに収まるのである。


 モーツァルトの音楽において他の作曲家と大きく異なること。

それは「沈黙」の雄弁さを知っていたということだ。

つまりは「引き算」の音楽なのである。西洋文化は例えば壮麗なゴシック建築にしても、精緻なフランス料理にしても、基本は「足し算」なのである。

 翻ってモーツァルトはどうか、古伊万里に茄子田楽なのである。

和音を入れようと思えばいくらでも入れられるところを敢えて休符にする。しばしば一番語りたい部分で休符になる。こういうところ、彼特有の儚さの美学に繋がるのではないだろうか。


よくモーツァルトはどこが天才なのですかと尋ねられる。こういうところである。つまり全てが絶妙なのであって、だいたいアレコレが上手いからだと断定できるようでは、真似する余地がある。それを天才とは、呼ばない。

千田

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