さて、後編である。
長い文章をくどくど書いて喜ばれるのは、紅茶にマドレーヌを浸して食べる男であって、私では、ない。(最もプルーストが嫌いな仏文専攻も存外多いが)故にサクッといきたい。
と、言いだしておいてなんだが、前回の第一主題で最も大切なことを書き忘れていた。つまりは「アシンメトリー」である。
小生、縁あって京の都、華道の家元に知己ある人がいる。
云く、花は活けるのではなく、花が活けるの出そうだ。
全くもって京都人らしい物言いだが、東夷にもわかりやすくと頼んだところ、花を何処に活けるか決めるのは人間ではなく、花が自ずから望むところにただ活ける手助けをするだけと言うことらしい。
確かに演奏もそうで、さてどうやってこの曲を調理してやろうか考えているうちはダメで、その音が望むように置くことが我々演奏家に出来ることではないかと近頃思ったりする。
話が、脱線した。
高尚なことを言われ、なるほどさもありなんと思えども、如何せんズブの素人である。具体的に花を活ける上で何かアドバイスはないかと訊いたところ、「左右対称はあきまへん」と言う。これには小生驚いた。まこと不思議なことながら、パリの師匠にも同じことを言われたことがあるからである。
ハイドシェックは毎日花を活ける。内弟子の自分は当然手伝わされる。ある日、師が朝から出かけるので、代わりにその日の「活花」を頼まれた。師は帰宅して花を見るなり、褒めてくれた。門前の小僧も面目躍起である。
「ケータはやはり日本人だ。西洋人の知らぬ美の真髄を知っている。」ときたものだ。
こちらはただ貴方の毎日の真似をしただけですと言いかけて、やめる。気を良くした小僧は理由を尋ねたくなったのだ。
云く「これは左右対称ではない。アシンメトリーだ。アシンメトリーこそ美の秘密であり、それを一番知っていたのが他ならぬモーツァルトだ。お前はモーツァルト弾きの素質がある」
そう言われた小僧はいよいよ上気になって、晩餐、師お気に入りの葡萄酒を飲みきってしまう。当然小僧は門の外へと出されてしまった。
小噺が過ぎてしまった。
要するにモーツァルト はシンメトリーを嫌う傾向にあるのだ。普通、基本フレーズは4小節が2つで8小節がほとんどである。思いついた童謡を歌ってみればいい。余程偏屈な童謡でなければ大概8小節である。
しかしモーツアルトは違う。フレーズが5小節だったり7小節ということがしばしばある。
この第一主題も8小節で終われるものをわざわざカデンツを膨らまして10小節にしている。
このあたり、常人と違うのだいう。8小節(シンメトリー)はまとまりは良いが飽きる。そこを敢えてアシンメトリーに崩すことで、新鮮さが生まれる、ということらしい。
考えてみれば我々日本人は古来アシンメトリに美を見出す民族である。俳句然り、茶道具然り、庭の敷石もそうである。この美的感覚がモーツァルトに通じると思うと、人類の美学の普遍性に思いを寄せてみたりするのである。
なんだか書いている当人、勝手にお後がよろしいようで、続きは次回にしようと思う。マドレーヌを浸す紅茶を沸かしていた人にはとんだ失礼をした。
千田
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