モーツァルトのKV333を先月演奏した。何故この曲を選んだのか今となっては思い出せないが、事の始まりを思い出せなくなったは歳のせいではあるまい。
この二年間モーツアルトのソナタを弾いている。
モーツァルトは現存するだけでピアノソナタを18曲書いている。私は作品の背景やら作曲家の生活にあまり興味はない。ただB-Durで3つ書いていて、そのどれもが美しいのは事実である。
B-Dur、が良い。
数多ある長調の中でこの曲をB-Durで書いているあたり流石だなと思う。例えばこれがD-Dur、個人的にも当時の認識としても最も華やかで明るい調性、だったら一気に冷めてしまう。B-Durだから良いのである。同じ長調でも、どこか内省的で、くぐもっていて、寂しさのかけらのある調性である。
さてこの曲、自然に流れるような、まるで一筆書きしたかのような美しい旋律だが、実は良く見ると、主題労作なのである。主題労作は楽聖ベートーヴェンの専売特許のように思われているが、実はそうではない。この時代モーツァルトはジャン・クリスティアン・バッハから大きな影響を受けている。動機操作である。モティーフ操作の妙を学び、すっかり自家薬籠中のものにしているあたり、未だ動機操作が他人の薬箱から借りている私とは当たり前ながら雲泥の差である。
もっと言えば私も、年齢的にはそろそろ「魔笛」に取り掛かっている齢ではあるが、その気配すらないのは一身に私の責任ではない。作品の背景やら時代考察に興味がないと言いつつこうしてモーツァルトの身の上話を持ち出しているが、話に一貫性がないのは、人格にそれがない故勘弁して頂きたい。勘弁ついでに申し上げると、J.C.BACHとの交流は始めてのロンドン滞在からのものであるし、「交響曲のお父さん」じゃない方のミヒャエル・ハイドンからも学んでいる。
ともかくもこの主題である。
湧き出でるような自然な旋律でまるで主題労作を感じさせないあたり、こういうのを見ていると、あぁモーツァルトは天才なんだなぁと感心する。別に一介のしがないピアノ弾きに感心されても困るだろうが、感心するものは感心する。この300小節近い第一楽章は結局のところ主題の3つのモティーフのみで構成されているのだから尚更である。
出だしの順序下降の6度、続く跳躍4度、5小節目の倚音によるシンコペーションリズム、たったこれだけである。ではどのようになっているのか進んでいきたいのだが、その前にこの主題それだけで極めて美しい、故にもう少しこの主題に留まりたい。
この10小節の第一主題、朗々としていながら何処か孤独を感じる主題が大好きである。
古今東西、別に好きになることに理由が必要なわけではない。けれども私はこういう場合その理由を知りたいし、知ればもっと好きになる性分なので、結果として未だ独身である。まあそのことはどうでも良い。
ではこの主題が何故美しいのか和声を見てみる。するとすぐに異変に気づく、1小節目の最後である。梅には鶯と言ったもので、当時は1小節目、曲の頭は主和音Ⅰと相場が決まっていた。誰が決めたかわからぬ相場、破ってはならぬわけではないが、大概失敗に終わる。それ相応の理由がある。曲頭が主和音でなければ一体この曲何調かわからないし、そもそも調性が安定しない。
けれどもこの天才はやるのである、1小節目の4拍目に、しかもあまりにそれとなく、担任の先生にバレないように、やる、つまりⅥである。
しかし天才は更に畳み掛けるようにその次の小節を丸々Ⅱの和音で通す。これは凄い。当時の機能和声で使える和音は大雑把に言って長三和音がⅠ,Ⅳ、Ⅴの三つ。短三和音がⅡとⅥ、あとはドッペルやナポリ等あるが、基本はこの5つ。そのうち使える短三和音の手札は二枚。その二枚を惜しげも無く出だしの2小節で使っている。この短三和音の連続が美しいし何処か哀しい。
もう1つこの曲の特徴、というよりモーツァルトの特徴だが、倚音の使い方が天才故に天才的に上手い。短三和音の小節で敢えて倚音をぶつけると更に不協和が生じる。感動的である。
例えば、どんなにスピルバーグがメガホンを取って、ロバート・デニーロが主演を張っても描くテーマが「90歳の午後の日向ぼっこ」。大変失礼だが、絶対につまらない自信がある。つまり音楽も人生も不協和音なしに感動しないのである。5小節目のシンコペーションなんかは倚音と繫留のオンパレードである。こういうところがモーツァルトの繊細な孤独を作っているのではないかと思う。
あぁしまった。結局10小節も進まなかった。次回はアシンメトリーをテーマに主題の確保と推移部、第二主題まで書けたらなぁと思う。
千田桂大
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